真夏の夕暮れ時、バイクのエンジンを切ると、ヘルメットの中で自分の荒い呼吸が響いた。シートの下から取り出したのは、今日の業務とは一切関係のない、小さな四角い革のケースだ。
「……よし」
ポケットにそれを仕舞い込み、俺は行きつけの居酒屋へと歩き出した。今夜、俺は人生最大の勝負に出る。
時計の針を3年ほど巻き戻す。
当時の俺は、ただ都内の渋滞をすり抜け、時間通りに荷物を届けることだけが生きがいのバイク便ライダーだった。そんな毎日のルーティンの中で、唯一の癒やしだったのが、ある大手専門商社への配達だった。
「いつもお疲れ様です! 早いですね」
受付のカウンターでそう言って微笑むのが、当時そこの受付事務をしていた彼女だった。最初は受領印をもらうだけの、ほんの数十秒のやり取り。でも、雨の日には「風邪ひかないでくださいね」と温かい缶コーヒーをくれたり、ひどい猛暑の日には「熱中症、気をつけてください」と塩飴を渡してくれたりした。
彼女のその小さな優しさに、俺はいつの間にか救われていた。ヘルメットの跡がつくほど汗だくの泥臭い俺に対しても、彼女はいつも変わらない爽やかな笑顔を向けてくれた。
もっと話してみたい。その一心で、納品のたびに「今日は道が混んでて」「さっきゲリラ豪雨に遭っちゃいました」と、少しずつ雑談を交わすようになった。
そんなある日、彼女がふと漏らした。 「いつも大変なお仕事なのに、楽しそうに話してくれて元気がもらえます。私もたまには、そういう前向きなエネルギーでお酒でも飲みたいな」
千載一遇のチャンスだった。俺は緊張で喉をカラカラにしながら、「じゃあ、今度おすすめの店、紹介します!」と誘った。それが、すべての始まりだった。
初めて二人で飲みに行った夜、仕事着ではない彼女の姿にひどく緊張したのを覚えている。だけど、お互いの休日の過ごし方や、くだらない失敗談で笑い合っているうちに、時間はあっという間に過ぎた。彼女の飾らない人柄に、俺は完全に恋に落ちていた。
それから交際を始めて、あっという間に3年が経った。
彼女は相変わらず優しく、そして俺の不規則なライダーの仕事を誰よりも理解し、応援してくれている。真冬の凍えるような夜も、帰りを待って温かい料理を作ってくれた。
暖簾をくぐると、奥のテーブル席に懐かしい笑顔が見えた。3年前、初めて二人でデートをしたあの居酒屋だ。
「お疲れ様! 今日も早かったね」 「おう、バイク便の意地だからな」
いつものように乾杯し、他愛のない話で盛り上がる。だけど、俺の心臓はさっきからエンジンのピストンばりに激しく脈打っていた。ポケットの中のケースが、やけに重く感じる。
コースの料理が一段落し、お互いのグラスが空きかけた頃、俺は意を決して背筋を伸ばした。
「なあ」 「ん? どうしたの、改まって」
不思議そうに小首をかしげる彼女の前に、俺はポケットから例のケースを取り出し、そっと開いた。街灯の光を反射するように、小さなダイヤがキラリと輝く。
「俺さ、3年前からずっと、お前の笑顔に案内されてここまで走ってこれたんだ。これからもずっと、俺の助手席っていうか……俺の人生の目的地になってほしい。結婚しよう」
一瞬の静寂の後、彼女の大きな瞳にみるみる涙が溜まっていった。そして、両手で口元を押さえながら、何度も大きく頷いてくれた。
「はい……! 喜んで。これからもずっと、一番近くでお疲れ様って言わせてね」
彼女の薬指に指輪が収まった瞬間、俺の胸の中のスピードメーターは完全に振り切れた。
明日からの配達は、きっとこれまで以上に安全運転になるだろう。だって俺には、何があっても絶対に無事に帰らなきゃいけない、世界で一番大切な「目的地」ができたのだから。

